菩薩の部

四菩薩

四菩薩(しぼさつ) 諸経に説かれる
(1)、華厳経:会座に来集した諸尊の上首の菩薩
      法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の四菩薩
        法慧 菩薩:十住の法門を説く
        功徳林菩薩:十行  〃
        金剛幢菩薩:十回向 〃
        金剛蔵菩薩:十地  〃
(2)、大日経:胎蔵界曼荼羅では大日如来の四方に位置する四菩薩
        普賢 菩薩:東南
        文殊 菩薩:西南
        観自在菩薩:西北
        弥勒 菩薩:東北
(3)、金剛頂経:金剛界曼荼羅では大日如来の四方に位置する四如来に親近する四菩薩
   (東方)阿シュク如来の四菩薩
        金剛サッタ
        金剛王   
        金剛愛   
        金剛喜  
   (南方)宝生如来の四菩薩
        金剛宝   
        金剛光   
        金剛幢   
        金剛笑   
   (西方)無量寿如来
        金剛法   
        金剛利   
        金剛因   
        金剛語   
  (北方)不空成就如来  
        金剛業  
        金剛護  
        金剛牙  
        金剛拳   以上を「金剛頂経の十六大菩薩」ともいう
(4)、文殊・普賢・観音・弥勒の四菩薩を、娑婆世界の衆生に最も因縁の深い娑婆有縁の四菩薩という
(5)、法華経:次の3つの分け方がある  
    1)文殊・普賢・弥勒・薬王の四菩薩
         本迹二門の説法  
         文殊に起こり普賢に竟る 
         弥勒・薬王は此土修行の上首 
    2)文殊・普賢・薬王・観音を迹門の四菩薩 
       法華経の説法が展開される上での発起衆、影響衆、守護・誓願を果たす
        文殊・普賢は法華経一部の起竟の菩薩 
        観音・薬王は法華経弘通の菩薩
    3) 大地より湧出した菩薩の上首
        上行菩薩  
        無辺行菩薩  
        浄行菩薩  
        安立行菩薩   
            以上を本門の四大菩薩という
【四大菩薩について】 
法華経湧出品において、釈尊の召命に応じて湧出した本化地湧の菩薩の上首たる四人の菩薩をいう。
       上行菩薩  
       無辺行菩薩
       浄行菩薩
       安立行菩薩
経文に「是の菩薩衆の中に四導師あり、一を上行と名け、二を無辺行と名け、三を浄 行と名け、四を安立行と名く、是の四菩薩、其の衆中に於いて最もこれ上首唱導の師なり」とある。
 この四菩薩について日蓮聖人は「此千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします。所謂 上行・無辺行・浄行・安立行なり。この四人は(略)釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善智識ともたのみ奉りぬべし」(『開目抄』定572~3)と述べられてい る。  これら四菩薩は久遠の本仏の教化を受けた菩薩であることから、特に「本化の四菩薩」 と呼ばれ、末法濁世に出現して法華経を弘通すべき仏勅を受けた菩薩である。
 これら四菩薩の中でも日蓮聖人がとりわけ尊重され、主体的に宗教的自覚で受けとめ られたのが上行菩薩であった。聖人は自己の法華経弘通に伴う受難の宗教体験と経文と 符合することから、自己を四菩薩の上首の上行菩薩になぞらえ、本化地湧上行の自覚に 住して、末法救済のため妙法五字の弘通に邁進された。

【日蓮宗の四菩薩】
  一尊四士(いっそんしし)
 本門の教主釈尊の左右の脇侍に本化地湧四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を配する本尊。
   『観心本尊抄』には「正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難などを脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢などを以って脇士と為す。これらの仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏いまさず。末法に来入して始めてこの仏像出現せしむべきか」(定713)と述べ、さらに妙法五字と末法の依師を論述した後に、「此時地湧千世界出現して本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊と明記されている。一尊四士は本門の教主釈尊の因行果徳としての妙法五字を本化地湧の大菩薩を媒介として末代幼稚の我等に授与される釈尊の因果を我等の信仰的主体性において受領するのが五字の受持(唱題)であり、その信的渇仰の対象として奠定されるのが本門の本尊である。本尊の形態については諸遺文に諸種の説示がみられるが、日蓮聖人の教義の上からは同体異相であって、その本質に異なりはない。本尊と我等の感応道交において論ずるならば、一尊四士本尊は我等の信仰の対象として拝する教えの本尊であり、これに対し、受持者の己心に具する本尊は観の本尊であるといえよう。