諸天神の部

豊臣秀頼

豊臣秀吉の次男。母は側室の茶々(淀殿)。文禄2年(1593年)、秀吉57歳のときの子で、大坂城で誕生した。

誕生した時にはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の文禄2年10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索したが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女・妻妾も皆殺しとなり、秀頼の秀吉の継嗣としての地位が確定した。秀吉はこのとき秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多数の大名たちに血判署名させている。伏見城が建設され秀吉が居城を移すと秀頼もこれに従って以後ここに住んだ。
慶長元年(1596年)9月、禁裏で元服して諱を秀頼と称す。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整えた。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。

秀吉死後には五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を強め、政権内の対立も深まっていった。五大老の前田利家の死去、七将襲撃事件に伴う五奉行・石田三成の失脚などで、政局の主導権は家康の手に握られてゆく。

慶長5年(1600年)に三成らが家康に対して挙兵して関ヶ原の戦いが勃発すると、秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下におかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康はその戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。ただ、一部の蔵入地からは依然として収入があった形跡がある。

慶長8年(1603年)2月、家康は、鎌倉幕府・室町幕府の最高権力者の地位を象徴する征夷大将軍の官職を獲得し、諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、独自の政権構築を始めた。秀頼は次第に天下人の座から外されてゆくことになる。
その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階・官職の昇進をとげ、毎年の年頭には平公家が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。

武家の世界においても秀頼家臣は陪臣ではなく徳川直参と同等に書類に記載されるなど秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。同年7月、秀頼は、生前の秀吉のはからいで婚約していた徳川秀忠の娘千姫(母は淀殿の妹・お江)と結婚した。慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。このときは家康が断念し、六男松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に面会させている。
慶長12年(1607年)1月11日、秀頼は右大臣を辞職している。

慶長16年(1611年)3月、家康の計らいで後陽成天皇が後水尾天皇に譲位すると、ついに秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正・浅野幸長に守られつつ上洛し、京都二条城で家康との会見を行った。この会見の意義については、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている。

朝廷では誕生以来、秀頼を摂家豊臣家の後継者として見なしており、これは関ヶ原後に家康に権力が移っても関白になり得る存在として朝廷内での位置づけは変わらず、慶長末年に秀頼が国家鎮護のために方広寺の大仏を再建した時も供養会に朝儀を挙行し文書を調えるなど、朝廷は秀頼のために機能した。
豊臣家は幕府からは五摂家と同じく公家として扱われた。

家康も、将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされているが、最終的には、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。
秀頼は、福島正則・加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが大坂方に参じる者はほとんどなく、正則が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認した程度にとどまった。一方、関ヶ原の戦いで改易された元大名である真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登などのほか、主家が西軍に与して改易されて浪人していた数万の武士が大坂城に入城した。浪人衆は非常に士気旺盛ではあったが寄せ集めなので統制が取りにくく、しかも浪人衆と大野治長・淀殿らが対立し、最後まで対立は解けなかった。例えば真田信繁などが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑強に反対し大坂城籠城に決するということもあった。

緒戦では木津川口、博労淵などの大坂城の周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城に撤収、野田・福島の水上戦でも敗れる。ただ今福・鴫野の戦いでも敗れてはいるが、佐竹義宣軍を一時追い詰める抵抗を見せたため、大坂方強しと周知される。

大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方が手酷い損害を受ける。そこで幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えた。本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議に賛成したのはこのためだとの説もある。
やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽きはじめ、家康は和議を提案。秀頼は当初、和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現した。

和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。しかし、家康はこれを恒久講和として考えてはおらず、戦争の再開を視野に入れていた。大坂方が和議の条件を履行するのを待たず、幕府自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。大坂方はこれに抗議するが、逆に幕府からは浪人の総追放や国替えを要求された。

翌慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発する。

大野治房が軍勢を率い大和郡山に出撃、制圧・略奪して帰還する。豊臣方は阪南から北上してくる幕府の大軍を、数で劣る自軍でも撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、主力軍が八尾方面に進軍。八尾・若江、道明寺で戦い、長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させた。ただ奮戦した木村重成・後藤基次が討ち死に、撤退を余儀なくされる。また紀州の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく大野治房らが出撃するも、樫井の戦いで先陣の塙直之が浅野軍に破れ、本隊が到着したときには浅野勢は紀州に撤退済みだったのでなすすべもなく帰城する。

敗戦続きで兵力が疲弊した大坂方は、家康、秀忠が大坂に布陣したところに最終決戦を挑む。天王寺・岡山の戦いである。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが、実現しなかった。淀殿がわが子かわいさに頑強に首を縦に振らなかったためという。

岡山口方面では大野治房率いる軍勢が秀忠の本陣に切り込むまで追い詰めるが、態勢を立て直した幕府の大軍の前に撤退を余儀なくされる。

天王寺方面には真田信繁・毛利勝永らが布陣。信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方双方から称賛されるほどの獅子奮迅ぶりを見せ、立ちふさがる徳川方を次々と蹴散らし、ついに家康本陣へ肉薄し、数度にわたる壮絶な突撃を敢行した。一時は家康に自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめたが、ついに及ばず、信繁は退却中に力尽きて討ち死にし、ほかの大坂方の部隊も次々と壊滅していった。

大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に入城した。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめるなか、やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲された。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが家康の容れるところとならず、秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害した(享年23)と伝えられている。

息子の国松は逃亡したものの結局捕らえられて殺害された。娘の天秀尼は千姫の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命された。また元禄初頭に80歳で没した求?上人は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男であると語ったとされる。

墓所は京都市東山区の養源院ほか。また大阪市中央区の豊国神社は、父秀吉・叔父秀長とともに秀頼も祭神としている。

昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡地から秀頼とされる遺骨が発掘され、京都の清凉寺に埋葬されたが、真偽は不明である。

平成23年(2011年)10月13日、大坂城三ノ丸に位置する大坂城鎮守社である玉造稲荷神社に秀頼の銅像が建立された。