足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)は室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 – 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王。
南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。

義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
鹿苑院は義満のほかに、義満が相国寺塔頭(現在の同志社大学今出川校地)に置いた京都五山の統括役所を指す場合もある。

幼少時から将軍権力確立まで
1358年(正平13年/延文3年)に生まれる。尊氏の死からちょうど100日目のことである。義満が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、1361年(正平16年/康安元年)には清氏や南朝の楠木正儀らに京都を占領され、義満は赤松則祐の居城播磨国白旗城への避難を余儀なくされた。翌年には幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京している。1367年(正平22年/貞治6年)に父・義詮が病により死去すると、義満は10歳で3代将軍となる。
1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、4月には管領細川頼之を烏帽子親として元服が行われた。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・?坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎えた。
さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。1375年(永和元年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。1378年(天授4年/永和4年)には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地により室町幕府と呼んでいる。
義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。
1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺を参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。

権力強化と南北朝合一
1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。
1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。
また、義満は1378年(天授4年/永和4年)3月に右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。翌年8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、1380年(天授6年/康暦2年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて寺社勢力に大打撃を与えた。義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣へ就任し官位の昇進を続けた。1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和・奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。
1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる。
義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年(応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家が追従して出家している。
1395年(応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。

勘合貿易と北山文化
義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。そのため、応永年号は明治以前では最も長い元号となった。
義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。
1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。
遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。
1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの、後の鹿苑寺)を造営した。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。

晩年と死後
1408年(応永15年)、急病のために死去、享年51(満49歳没)。法名:鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺鹿苑院に葬られた。以後相国寺は歴代将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明期に火災に遭い、鹿苑院は廃寺となった。そのため、彼の墓は未だ不明だが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に安置されている。
義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所と呼ばれるようになった。
6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。