法然上人

法然上人は美作の国、押領使漆間時国の一子で、幼名を勢至丸といい、九歳の時、父の遺命により出家を志し菩提寺の観覚の弟子となった。のち十五歳の時叡山に登り持宝院の源光をたずね、源光の推薦で、功徳院の皇国阿闍梨の室に入り、天台の学を修め、また黒谷の叡空の室に入って密教学を修め大乗円頓の大戒を受け、二十四歳の時にはあらゆる仏学をきわめつくし、また南部の碩学を歴訪して諸宗の奥義に達した。上人は、智慧第一の法然房と称された。のち、師の叡空より「往生要集」をさずかり、善導の「観経四帖疏」を読むに至って、念仏修行の功徳を知り、専修念仏の宗義をとなえ、ついに、浄土の一宗を開創した。以来上人はさかんに専修念仏法義を談じ、上人の徳風は四方におよんで南都北嶺の学匠のその門に入るものも多く、念仏の一門は日々門前に市をなしたといわれている。しかしその結果、上人は南都北嶺の僧徒より嫉妬を受け元久元年には念仏停止の訴願をこうむり、承元の法難を受け、念仏停止の命がくだり上人は土佐に流罪となった。また上人は弟子綽空と関白兼実公の娘玉日姫と妻し、弥陀本願の易行易修を示して、肉食妻帯の新例を開いた。上人は、赦免後、ふたたび京師に入って大谷の禅坊に住し、もっぱら念仏をとなえて、自行化他の行を怠らず、浄土の一門はますます栄えた。のち、その徳を賞し、円光大師の謚号を賜わった。