天台大師(智者大師)

智者大師は梁の大同四年に生まれ、七歳の時すでに普門品を暗誦し、十五歳の時長沙に至って仏像を拝し、十八歳で初志を果たした。はじめは慧曠にしたがって律典を学び方等に通じ、のち法華経、無量義経、普賢観経等を学んだが、同門の法喜等二十七人とともに金陵(今の南京)に至り、当時禅学の老宿として四隣にその名を得た法済と対論してこれを説破し,大いに名声を博し、道俗師を慕って教えを受けた。師は、宗煕寺、仏窟寺に入り、ついで瓦官寺を領して、法華経題を講じたが、瓦官寺にとどまること八年で、その間に大智度論を講じ、また禅門を説いた。のち、金陵を去って天台山に入った。以来、帝の崇敬を得て、金光明経を講じ、永陽王に請われ、東陽の講に望み、浄戒をさずけ、ついで金陵の霊曜寺に入り、のち、大極殿において大智度論、仁王般若経を講じ、その後陳亡び随の文帝に至って晋王に請われ菩薩戒をさずけ、王より智者の号を賜った。盧山に帰り、尚陽玉泉に精舎を建て、また十住寺を重修し、玉泉の堂宇ができ上がって玉泉寺の寺号を賜わった。翌年には摩訶止観を講じ、浄名義疏を撰して王に献じた。天台山に帰ってのち、六十歳を最後とし、仏隴西南峰に葬られた。のち法空宝覚尊者、霊慧大師の諡号を賜わったが、後世もっぱら智者大師と称し、また天台にあった為、天台大師とも称し、伝法の弟子多く、著書には浄名義疏等多数の経疏がのこされた。